帰りける人来れりといひしかばほとほと死にき君かと思ひて 狭野茅上娘子
帰《かへ》りける人《ひと》来《きた》れりといひしかばほとほと死《し》にき君かと思ひて 〔巻十五・三七七二〕 狭野茅上娘子
娘子《おとめ》が宅守《やかもり》に贈った歌であるが、罪をゆるされて都にお帰りになった人が居るというので、嬉しくて死にそうでした、それがあなたかと思って、というのであるが、天平十二年罪を赦《ゆる》されて都に帰った人には穂積朝臣老《ほづみのあそみおゆ》以下数人いるが、宅守はその中にはいず、続紀《しょくき》にも、「不[#レ]在[#二]赦限[#一]」とあるから、此時宅守が帰ったのではあるまい。この「殆《ほとほ》と死にき」をば、殆《あやう》しの意にして、胸のわくわくしたと解する説もあり、私も或時《あるとき》にはそれに従った。併し、「天の火もがも」を肯定するとすると、「ほとほと死にき」を肯定してもよく、その方が甘く切実で却っておもしろいと思って今回は二たびそう解釈することとした。この歌は以上選んだ娘子の歌の中では一番よい。
「ほとほとしにき」は、原文「保等保登之爾吉」であって、「ホトホトシニキハ、驚テ胸ノホトバシルナリ」(代匠記精撰本)というのが第一説で、古義もそれに従った。鈴屋答問録《すずのやとうもんろく》に、「ほと」は俗言の「あわ(は)てふためく」の「ふた」に同じいとあるのも参考となるだろう。それから、「ほとんど死《しに》たりとなり。うれしさのあまりになるべし」(拾穂抄《しゅうすいしょう》)は第二説で、「殆将死なり。あまりてよろこばしきさまをいふ」(考)、「しにきは死にき也」(略解)。古事記伝、新考、新訓等もこの第二説である。集中、「君を離れて恋に之奴倍之《シヌベシ》」(巻十五・三五七八)があるから、「之爾」を「死に」と訓んで差支のないことが分かる。