今は吾は死なむよ我背恋すれば一夜一日も安けくもなし  作者不詳

《いま》は吾《あ》は死《し》なむよ我背《わがせ》《こひ》すれば一夜《ひとよ》一日《ひとひ》も安《やす》けくもなし 〔巻十二・二九三六〕 作者不詳

 一首の意は、あなたよ、もう私は死んでしまう方が益《ま》しです、あなたを恋すれば日は日じゅう夜は夜じゅう心の休まることはありませぬ、というので、女が男に愬《うった》えた趣《おもむき》の歌である。「死なむよ」は、「死なむ」に詠歎の助詞「よ」の添わったもので、「死にましょう」となるのであるが、この詠歎の助詞は、特別の響を持ち、女が男に愬える言葉としては、甘くて女の声その儘《まま》を聞くようなところがある。この歌を選んだのは、そういう直接性が私の心を牽《ひ》いたためであるが、後世の恋歌になると、文学的に間接に堕《お》ち却って悪くなった。
 巻四(六八四)、大伴坂上郎女の、「今は吾は死なむよ吾背生けりとも吾に縁《よ》るべしと言ふといはなくに」という歌は、恐らく此歌の模倣だろうから、当時既に古歌として歌を作る仲間に参考せられていたことが分かる。なお集中、「今は吾は死なむよ吾妹《わぎも》逢はずして念《おも》ひわたれば安けくもなし」(巻十二・二八六九)、「よしゑやし死なむよ吾妹《わぎも》生けりとも斯くのみこそ吾が恋ひ渡りなめ」(巻十三・三二九八)というのがあり、共に類似の歌である。「死なむよ」の語は、前云ったように直接性があって、よく響くので一般化したものであろう。併し、「死なむよ我背」と女のいう方が、「死なむよ我妹」と男のいうよりも自然に聞こえるのは、後代の私の僻眼《ひがめ》からか。ただ他の歌が皆この歌に及ばないところを見ると、「今は吾は死なむよ我背」が原作で、従って、「死なむよ我背」が当時の人にも自然であっただろうと謂《い》うことが出来る。