ますらをと思へる吾や水茎の水城のうへに涕拭はむ  大伴旅人

ますらをと思《おも》へる吾《われ》や水茎《みづくき》の水城《みづき》のうへに涕《なみだ》《のご》はむ 〔巻六・九六八〕 大伴旅人

 大伴旅人が大納言に兼任して、京に上る時、多勢の見送人の中に児島《こじま》という遊行女婦《うかれめ》が居た。旅人が馬を水城《みずき》(貯水池の大きな堤)に駐《と》めて、皆と別を惜しんだ時に、児島は、「凡《おほ》ならば左《か》も右《か》も為《せ》むを恐《かしこ》みと振りたき袖を忍《しぬ》びてあるかも」(巻六・九六五)、「大和道《やまとぢ》は雲隠《くもがく》りたり然れども我が振る袖を無礼《なめし》と思ふな」(同・九六六)という歌を贈った。それに旅人の和《こた》えた二首中の一首である。
 一首の意は、大丈夫《ますらお》だと自任していたこの俺《おれ》も、お前との別離が悲しく、此処《ここ》の〔水茎の〕(枕詞)水城《みずき》のうえに、涙を落すのだ、というのである。
 児島の歌も、軽佻《けいちょう》でないが、旅人の歌もしんみりしていて、決して軽佻なものではない。「涙のごはむ」の一句、今の常識から行けば、諧謔《かいぎゃく》を交《まじ》えた誇張と取るかも知れないが、実際はそうでないのかも知れない、少くとも調べの上では戯れではない。「大丈夫《ますらお》とおもへる吾や」はその頃の常套語で軽いといえば軽いものである。当時の人々は遊行女婦というものを軽蔑せず、真面目《まじめ》にその作歌を受取り、万葉集はそれを大家と共に並べ載せているのは、まことに心にくいばかりの態度である。
「真袖もち涙を拭《のご》ひ、咽《むせ》びつつ言問《ことどひ》すれば」(巻二十・四三九八)のほか、「庭たづみ流るる涙とめぞかねつる」(巻二・一七八)、「白雲に涙は尽きぬ」(巻八・一五二〇)等の例がある。