零る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の塞なさまくに  穂積皇子

《ふ》る雪《ゆき》はあはにな降《ふ》りそ吉隠《よなばり》の猪養《ゐがひ》の岡《をか》の塞《せき》なさまくに 〔巻二・二〇三〕 穂積皇子

 但馬《たじま》皇女が薨ぜられた(和銅元年六月)時から、幾月か過ぎて雪の降った冬の日に、穂積皇子が遙かに御墓(猪養の岡)を望まれ、悲傷|流涕《りゅうてい》して作られた歌である。皇女と皇子との御関係は既に云った如くである。吉隠《よなばり》は磯城《しき》郡初瀬町のうちで、猪養の岡はその吉隠にあったのであろう。「あはにな降りそ」は、諸説あるが、多く降ること勿《なか》れというのに従っておく。「塞《せき》なさまくに」は塞《せき》をなさんに、塞《せき》となるだろうからという意で、これも諸説がある。金沢本には、「塞」が「寒」になっているから、新訓では、「寒からまくに」と訓んだ。
 一首は、降る雪は余り多く降るな。但馬皇女のお墓のある吉隠の猪養の岡にかよう道を遮《さえぎ》って邪魔になるから、というので、皇子は藤原京(高市郡鴨公村)からこの吉隠(初瀬町)の方を遠く望まれたものと想像することが出来る。
 皇女の薨ぜられた時には、皇子は知太政官事《ちだいじょうかんじ》の職にあられた。御多忙の御身でありながら、或雪の降った日に、往事のことをも追懐せられつつ吉隠の方にむかってこの吟咏をせられたものであろう。この歌には、解釈に未定の点があるので、鑑賞にも邪魔する点があるが、大体右の如くに定めて鑑賞すればそれで満足し得るのではあるまいか。前出の、「君に寄りなな」とか、「朝川わたる」とかは、皆皇女の御詞であった。そして此歌に於てはじめて吾等は皇子の御詞に接するのだが、それは皇女の御墓についてであった。そして血の出るようなこの一首を作られたのであった。結句の「塞なさまくに」は強く迫る句である。