山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく 高市皇子
山吹《やまぶき》の立《た》ちよそひたる山清水《やましみづ》汲《く》みに行《ゆ》かめど道《みち》の知《し》らなく 〔巻二・一五八〕 高市皇子
十市皇女《とおちのひめみこ》が薨ぜられた時、高市皇子《たけちのみこ》の作られた三首の中の一首である。十市皇女は天武天皇の皇長女、御母は額田女王《ぬかだのおおきみ》、弘文天皇の妃であったが、壬申《じんしん》の戦後、明日香清御原《あすかのきよみはら》の宮(天武天皇の宮殿)に帰って居られた。天武天皇七年四月、伊勢に行幸御進発間際に急逝せられた。天武紀に、七年夏四月、丁亥朔、欲[#レ]幸[#二]斎宮[#一]、卜[#レ]之、癸巳食[#レ]卜、仍取[#二]平旦時[#一]、警蹕既動、百寮成[#レ]列、乗輿命[#レ]蓋、以未[#レ]及[#二]出行[#一]、十市皇女、卒然病発、薨[#二]於宮中[#一]、由[#レ]此鹵簿既停、不[#レ]得[#二]幸行[#一]、遂不[#レ]祭[#二]神祇[#一]矣とある。高市皇子は異母弟の間柄にあらせられる。御墓は赤穂にあり、今は赤尾に作っている。
一首の意は、山吹の花が、美しくほとりに咲いている山の泉の水を、汲みに行こうとするが、どう通《とお》って行ったら好いか、その道が分からない、というのである。山吹の花にも似た姉の十市皇女が急に死んで、どうしてよいのか分からぬという心が含まれている。
作者は山清水のほとりに山吹の美しく咲いているさまを一つの写象として念頭に浮べているので、謂わば十市皇女と関聯した一つの象徴なのである。そこで、どうしてよいか分からぬ悲しい心の有様を「道の知らなく」と云っても、感情上|毫《すこ》しも無理ではない。併し、常識からは、一定の山清水を指定しているのなら、「道の知らなく」というのがおかしいというので、橘守部の如く、「山吹の立ちよそひたる山清水」というのは、「黄泉」という支那の熟語をくだいてそういったので、黄泉まで尋ねて行きたいが幽冥界を異にしてその行く道を知られないというように解するようになる。守部の解は常識的には道理に近く、或は作者はそういう意図を以て作られたのかも知れないが、歌の鑑賞は、字面にあらわれたものを第一義とせねばならぬから、おのずから私の解釈のようになるし、それで感情上決して不自然ではない。
第二句、「立儀足」は旧訓サキタルであったのを代匠記がタチヨソヒタルと訓んだ。その他にも異訓があるけれども大体代匠記の訓で定まったようである。ヨソフという語は、「水鳥のたたむヨソヒに」(巻十四・三五二八)をはじめ諸例がある。「山吹の立ちよそひたる山清水」という句が、既に写象の鮮明なために一首が佳作となったのであり、一首の意味もそれで押とおして行って味えば、この歌の優れていることが分かる。古調のいい難い妙味があると共に、意味の上からも順直で無理が無い。黄泉云々の事はその奥にひそめつつ、挽歌としての関聯を鑑賞すべきである。なぜこの歌の上の句が切実かというに、「かはづ鳴く甘南備《かむなび》河にかげ見えて今か咲くらむ山吹の花」(巻八・一四三五)等の如く、当時の人々が愛玩した花だからであった。