磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらば亦かへり見む  有間皇子

磐代《いはしろ》の浜松《はままつ》が枝《え》を引《ひ》き結《むす》び真幸《ささき》くあらば亦《また》かへり見《み》む 〔巻二・一四一〕 有間皇子

 有間皇子《ありまのみこ》(孝徳天皇皇子)が、斉明天皇の四年十一月、蘇我赤兄《そがのあかえ》に欺《あざむ》かれ、天皇に紀伊の牟婁《むろ》の温泉(今の湯崎温泉)行幸をすすめ奉り、その留守に乗じて不軌《ふき》を企てたが、事露見して十一月五日却って赤兄のために捉《とら》えられ、九日紀の温湯《ゆ》の行宮《あんぐう》に送られて其処で皇太子中大兄の訊問《じんもん》があった。斉明紀四年十一月の条に、「於[#レ]是皇太子、親間[#二]有間皇子[#一]曰、何故謀反、答曰、天与[#二]赤兄[#一]知、吾全不[#レ]解」の記事がある。この歌は行宮へ送られる途中磐代(今の紀伊日高郡南部町岩代)海岸を通過せられた時の歌である。皇子は十一日に行宮から護送され、藤白坂で絞《こう》に処せられた。御年十九。万葉集の詞書には、「有間皇子自ら傷《かな》しみて松が枝を結べる歌二首」とあるのは、以上のような御事情だからであった。
 一首の意は、自分はかかる身の上で磐代まで来たが、いま浜の松の枝を結んで幸を祈って行く。幸に無事であることが出来たら、二たびこの結び松をかえりみよう、というのである。松枝を結ぶのは、草木を結んで幸福をねがう信仰があった。
 無事であることが出来たらというのは、皇太子の訊問に対して言い開きが出来たらというので、皇子は恐らくそれを信じて居られたのかも知れない。「天と赤兄と知る」という御一語は悲痛であった。けれども此歌はもっと哀切である。こういう万一の場合にのぞんでも、ただの主観の語を吐出《はきだ》すというようなことをせず、御自分をその儘《まま》素直にいいあらわされて、そして結句に、「またかへり見む」という感慨の語を据えてある。これはおのずからの写生で、抒情詩としての短歌の態度はこれ以外には無いと謂《い》っていいほどである。作者はただ有りの儘に写生したのであるが、後代の吾等がその技法を吟味すると種々の事が云われる。例えば第三句で、「引き結び」と云って置いて、「まさきくあらば」と続けているが、そのあいだに幾分の休止あること、「豊旗雲に入日さし」といって、「こよひの月夜」と続け、そのあいだに幾分の休止あるのと似ているごときである。こういう事が自然に実行せられているために、歌調が、後世の歌のような常識的平俗に堕《おち》ることが無いのである。