紫草のにほへる妹を憎くあらば人嬬ゆゑにあれ恋ひめやも 天武天皇
紫草《むらさき》のにほへる妹《いも》を憎《にく》くあらば人嬬《ひとづま》ゆゑにあれ恋《こ》ひめやも 〔巻一・二一〕 天武天皇
右(二〇)の額田王の歌に対して皇太子(大海人皇子、天武天皇)の答えられた御歌である。
一首の意は、紫の色の美しく匂《にお》うように美しい妹《いも》(おまえ)が、若しも憎いのなら、もはや他人の妻であるおまえに、かほどまでに恋する筈《はず》はないではないか。そういうあぶないことをするのも、おまえが可哀いからである、というのである。
この「人妻ゆゑに」の「ゆゑに」は「人妻だからと云《い》って」というのでなく、「人妻に由《よ》って恋う」と、「恋う」の原因をあらわすのである。「人妻ゆゑにわれ恋ひにけり」、「ものもひ痩《や》せぬ人の子ゆゑに」、「わがゆゑにいたくなわびそ」等、これらの例万葉に甚《はなは》だ多い。恋人を花に譬《たと》えたのは、「つつじ花にほえ少女、桜花さかえをとめ」(巻十三・三三〇九)等がある。
この御歌の方が、額田王の歌に比して、直接で且つ強い。これはやがて女性と男性との感情表出の差別ということにもなるとおもうが、恋人をば、高貴で鮮麗な紫の色にたぐえたりしながら、然《し》かもこれだけの複雑な御心持を、直接に力づよく表わし得たのは驚くべきである。そしてその根本は心の集注と純粋ということに帰着するであろうか。自分はこれを万葉集中の傑作の一つに評価している。集中、「憎し」という語のあるものは、「憎くもあらめ」の例があり、「憎《にく》くあらなくに」、「憎《にく》からなくに」の例もある。この歌に、「憎」の語と、「恋」の語と二つ入っているのも顧慮してよく、毫も調和を破っていないのは、憎い(嫌い)ということと、恋うということが調和を破っていないがためである。この贈答歌はどういう形式でなされたものか不明であるが、恋愛贈答歌には縦《たと》い切実なものでも、底に甘美なものを蔵している。ゆとりの遊びを蔵しているのは止むことを得ない。なお、巻十二(二九〇九)に、「おほろかに吾し思はば人妻にありちふ妹に恋ひつつあらめや」という歌があって類似の歌として味うことが出来る。