紀の国の山越えて行け吾が背子がい立たせりけむ厳橿がもと 額田王
紀《き》の国《くに》の山《やま》越《こ》えて行《ゆ》け吾《わ》が背子《せこ》がい立《た》たせりけむ厳橿《いつかし》がもと 〔巻一・九〕 額田王
紀の国の温泉に行幸(斉明)の時、額田王の詠んだ歌である。原文は、「莫囂円隣之、大相七兄爪謁気、吾瀬子之《ワガセコガ》、射立為兼《イタタセリケム》、五可新何本《イツカシガモト》」というので、上半の訓がむずかしいため、種々の訓があって一定しない。契沖が、「此歌ノ書ヤウ難儀ニテ心得ガタシ」と歎じたほどで、此儘では訓は殆ど不可能だと謂《い》っていい。そこで評釈する時に、一首として味うことが出来ないから回避するのであるが、私は、下半の、「吾が背子がい立たせりけむ厳橿《いつかし》が本《もと》」に執着があるので、この歌を選んで仮りに真淵の訓に従って置いた。下半の訓は契沖の訓(代匠記)であるが、古義では第四句を、「い立たしけむ」と六音に訓み、それに従う学者が多い。厳橿《いつかし》は厳《おごそ》かな橿の樹で、神のいます橿の森をいったものであろう。その樹の下に嘗《かつ》て私の恋しいお方が立っておいでになった、という追憶であろう。或は相手に送った歌なら、「あなたが嘗てお立ちなされたとうかがいましたその橿の樹の下に居ります」という意になるだろう。この句は厳かな気持を起させるもので、単に句として抽出するなら万葉集中第一流の句の一つと謂っていい。書紀垂仁巻に、天皇以[#二]倭姫命[#一]為[#二]御杖[#一]貢[#二]奉於天照大神[#一]是以倭姫命以[#二]天照大神[#(ヲ)][#一]鎮[#二]坐磯城[#(ノ)]厳橿之本[#一]とあり、古事記雄略巻に、美母呂能《ミモロノ》、伊都加斯賀母登《イツカシガモト》、加斯賀母登《カシガモト》、由由斯伎加母《ユユシキカモ》、加志波良袁登売《カシハラヲトメ》、云々とある如く、神聖なる場面と関聯し、橿原《かしはら》の畝火《うねび》の山というように、橿の木がそのあたり一帯に茂っていたものと見て、そういうことを種々念中に持ってこの句を味うこととしていた。考頭注に、「このかしは神の坐所の斎木《ゆき》なれば」云々。古義に、「清浄なる橿といふ義なるべければ」云々の如くであるが、私は、大体を想像して味うにとどめている。
さて、上の句の訓はいろいろあるが、皆あまりむずかしくて私の心に遠いので、差向き真淵訓に従った。真淵は、「円(圓)」を「国(國)」だとし、古兄※[#「低のつくり」、第3水準1-86-47]湯気《コエテユケ》だとした。考に云、「こはまづ神武天皇紀に依《よる》に、今の大和国を内つ国といひつ。さて其内つ国を、こゝに囂《サヤギ》なき国と書たり。同紀に、雖辺土未清余妖尚梗而《トツクニハナホサヤゲリトイヘドモ》、中洲之地無風塵《ウチツクニハヤスラケシ》てふと同意なるにて知《しり》ぬ。かくてその隣とは、此度は紀伊国を差《さす》也。然れば莫囂国隣之の五字は、紀乃久爾乃《キノクニノ》と訓《よむ》べし。又右の紀に、辺土と中州を対《むかへ》云《いひ》しに依ては、此五字を外《ト》つ国のとも訓べし。然れども云々の隣と書しからは、遠き国は本よりいはず、近きをいふなる中に、一国をさゝでは此哥《このうた》にかなはず、次下に、三輪山の事を綜麻形と書なせし事など相似たるに依ても、猶《なほ》上の訓を取るべし」とあり、なお真淵は、「こは荷田大人《かだのうし》のひめ哥《うた》也。さて此哥の初句と、斉明天皇紀の童謡《ワザウタ》とをば、はやき世よりよく訓《ヨム》人なければとて、彼童謡をば己に、此哥をばそのいろと荷田[#(ノ)]信名《のぶな》[#(ノ)]宿禰《すくね》に伝へられき。其後多く年経て此訓をなして、山城の稲荷山の荷田の家に問《とふ》に、全く古大人の訓に均《ひと》しといひおこせたり。然れば惜むべきを、ひめ隠しおかば、荷田大人の功も徒《いたづら》に成《なり》なんと、我友皆いへればしるしつ」という感慨を漏らしている。書紀垂仁天皇巻に、伊勢のことを、「傍国《かたくに》の可怜国《うましくに》なり」と云った如くに、大和に隣った国だから、紀の国を考えたのであっただろうか。
古義では、「三室《みもろ》の大相土見乍湯家《ヤマミツツユケ》吾が背子がい立たしけむ厳橿が本《もと》」と訓み、奠器|円[#レ]隣《メグラス》でミモロと訓み、神祇を安置し奉る室の義とし、古事記の美母呂能伊都加斯賀母登《ミモロノイツカシガモト》を参考とした。そして真淵説を、「紀[#(ノ)]国の山を超て何処《イヅク》に行とすべけむや、無用説《イタヅラゴト》といふべし」と評したが、併《しか》しこの古義の言は、「紀の山をこえていづくにゆくにや」と荒木田|久老《ひさおい》が信濃漫録《しなのまんろく》で云ったその模倣である。真淵訓の「紀の国の山越えてゆけ」は、調子の弱いのは残念である。この訓は何処か弛《たる》んでいるから、調子の上からは古義の訓の方が緊張している。「吾が背子」は、或は大海人皇子《おおあまのみこ》(考・古義)で、京都に留まって居られたのかと解している。そして真淵訓に仮りに従うとすると、「紀の国の山を越えつつ行けば」の意となる。紀の国の山を越えて旅して行きますと、あなたが嘗てお立ちになったと聞いた神の森のところを、わたくしも丁度通過して、なつかしくおもうております、というぐらいの意になる。